2008.9.17 チャンピオンズリーググループリーグ第1戦
マンチェスターU 0−0 ビジャレアル
Rマドリー 2−0 ボリソフ
マジョルカは次節デポルティーボ戦。
そのためか97-98シーズン、マジョルカで1年だけプレーしたバレロンのインタビューが
公式サイトに載っています。
面白そうだけど余裕がないな。
こちとらASに載ったマルティのインタビューを訳すだけで精一杯だ。
以下テキトー訳。
−ホームの初戦(オサスナ戦)でスタメンじゃなかったことに驚いた?
長い間サッカーをしていると驚かないよ。
監督が多くの選手の中から理想の11人を見つけようとしていることはみんな理解している。
僕は生涯のチームで何年もサッカーを楽しむつもりでやって来た。
−故郷に戻ってどんな感じ?
すべてにおいて満足している。
人々は僕が他のチームでやってきた仕事も評価して大切にしてくれている。
僕はサッカーでそれなりに名を成したと思っている。
そして今、僕がセビージャで成し遂げたことをマジョルカでもやりたいと思っている。
−試合に後半から登場したとき何を考えていた?
監督が僕に求めているのはピッチの真ん中でバランスを執って数的優位を保つこと。
僕たちは攻撃的なチームと対戦し、問題が生じないように
広いエリアをコントロールしようとボールを回し続けた。
−今ここに戻ってきたけどマジョルカでは成功できずに他のチームに移籍した。なぜだったの?
カンテラの選手たちはトップチームでの出場を必要とするけど
クーペル監督は多くの選手を一緒に連れてきたんだ。
それに僕のポジションにはエンゴンガのような偉大なプレーヤーがいた。
バスケス監督に代わったときは(クーペルと一緒に来た)選手もいなくなり
僕にも出場の可能性はあったけど監督の信頼は得られなかった。
3年間ずっとトップチームと一緒に練習してきたけど
僕をプッシュしてくれる監督はいなかった。
クラブには他のオプションもなかったし、
僕の人生にとって一番重要なのは空気を換えることだと考えて移籍することにした。
−あなたはセビージャで最良のときを過ごしましたね。
そう、息子も生まれたし、将来もずっと覚えているであろう忘れがたいことだ。
だけど特にその中でも4年半に渡って全体の90%にあたる200試合以上に出場したことが
印象に残っている。
−アントニオ・プエルタの件に触れた。仲間を失ったことをどう思う?
ともに過ごし、ともに語らった友人がいなくなる。
最も困難なのは毎日毎日ロッカールームに入ってピッチに出ることだった。
これは僕らを傷つけ、ここを去る気を起こさせた。
僕は選手として最後の年を苦しみの中で過ごしたいとは思わなかった。
−(セビージャの会長)デル・ニドに移籍の許可を貰うのは難しかった?
順調だった。お金のことも心配しなくて良かった。
マジョルカに戻ることに賛成してくれた。
ここ数ヶ月でめっきり白髪か増えたマルティ as より