以下の文章はセビージャ監督マノロ・ヒメネスが
4月10日付のマルカに寄せたプエルタへの追悼文です。
スペイン語の教育を受けていない素人が読んでみたいという気持ちだけで強引に訳したので
訳文としても日本語としてもおかしなところが多々ありますが、どうぞご了承を。
原文はこちら
http://www.marca.com/edicion/marca/firmas/es/desarrollo/1110343.html
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Primer Jueves de Feria sin Puerta
Por MANOLO JIMÉNEZ, entrenador del Sevilla
偉大なアントニオ・プエルタの姿を思い出そうとするとき適した言葉をみつけるのは容易ではない。
サッカー選手として、人として、特別な愛を感じる。
彼のいないフェリアの初めての木曜日が来た。
セビージャの歴史とプエルタの運命を変えた二度目の記念日となる木曜日が来た。
私たちは小さな頃から愛するセビージャを見続けた選手の話をする。
どんなに一生懸命サッカー選手としてのレベルになったか神は知っているが、
彼が亡くなってしまった今は話さない。
あのゴールはステップとなった。
あのゴールでスポーツ選手としてエリートサッカー選手として認められた。
圧倒的な人格
彼はロッカールームの中心人物であり魂であった。
アントニオがいないとセビージャ・アトレチコはセビージャ・アトレチコではなかった。
とても短い時間で尊敬を得、チームの全ての仲間の愛情を得た。
間違いなく彼は人間として私が出会ったもっとも重要なサッカー選手である。
アラゴネス監督が代表として彼を招集したとき私たちは非常な喜びを感じた。
それは明らかにありがたい報奨だった。彼は100%人間だった。
シャルケ戦
あのゴールは幸運の小さな一回分でできたように見ることができる。
それはたくさんの思いをこめたシュートだった。
しかしそれはゴールのほんの少し外側へ行ってたかもしれない。
それにもかかわらず現実にはいつも練習している通りのシュートとなった。
私たちはセッションでこのようなシュート練習をし、それがとてもうまくいった。
偉大なゴールをし、それはすべて練習で得たものだ。
ダイレクトシュートは何日も何回も繰り返し練習したものだ。
プエルタのゴールは精神的な強さと練習し続けたことの証拠だ。
決して諦めてはいけない。プレーの雰囲気を変えなければと言ったらすぐに成功した。
あのゴールは客席から見ていた私にとって大きな喜びだった。
私は彼のために、彼に大仕事をさせた全てのために嬉しかった。
半月板の損傷
初めてアントニオ・プエルタと一緒になったのは彼が16歳の時で、最初の試合で半月版を痛めた。
試合は敗れた、泣きながら…。
私は彼に君はとても良いサッカー選手だから今後いくらでもチャンスがあるから大丈夫だと言った。
彼の才能は驚くべきものだった。
今日スペイン代表左サイドとして彼以上の選手はいるだろうか。
彼の勢いは印象的だった。
過ぎた夏の思い出話だ。
セグンダAのシェレスが彼を欲しいと言った。
彼がもうすぐ17歳というときで行ったほうが良いだろうかと考えた。
彼は行きたくない、カンテラでもっと続けたいと主張した。
私は当時トップチームの監督をしていたホアキン・カパロスと話し合い
彼に君は大変有望なのでセビージャでプレーすることが決まったと言った。
彼はサイドバックでもウィングでもトップ下でもプレーすることができた。
彼は素晴らしいキック力を持っていた。
腕章のないキャプテン
残念ながら私たちがプエルタで楽しませてもらったのは時間は短かった。しかしとても強烈だ。
彼は逝ってしまった、あまりに若く伝説になってしまった。人々はもう少しやって欲しいと願った。
彼は私がセビージャ・アトレチコで信頼する人間であり今も私を魅了する人物である。
試合に敗れたあとでストッキングを下げながら独特の歩き方でロッカールームにやって来た。
チームメイトはそれを見ただけで元気が出た。
朝練習のためロッカールームに着いたときはお祭りだった。
それはロッカールームを賑やかに活気づけた。
彼は特別だった。
カペルが台頭してきたとき彼は余計な説明は求めず途中で交代することを受け入れた。
彼はとても度量が大きかった。
彼は常にロッカールームのことを考え、チームにとって良いと思われることを受け入れた。
キャプテンの精神を持っていた。キャプテンマークは巻いていなかったが彼はキャプテンだった。
今はまだアントニオ・プエルタがいないということを話すのは辛い。
もし何かいたらないことがあったらなら許してほしい。
uefa com より